先日、とあるコラムで引用されている、厚切りジェイソン さんのツイートを見ていろいろと思うところがありました。
厚切りジェイソンさんに対して、「やりたいことが分からない」という相談が非常に多いらしいのですが、それに対する結論の一つとしてこのようなツイートをされました。
幼稚園→周りと合わせろ
小学校→周りと合わせろ
中学校→周りと合わせろ
高校→周りと合わせろ
大学→周りと合わせろ
会社→周りと合わせろ
パターンパターン!見えてきたよ!「やりたいことが分からない」とよく相談受ける理由。
自分で考える機会が今までなかったから。— 厚切りジェイソン (@atsugirijason) 2015年10月1日
「周りと合わせろ」という、ひとつの答えを親が用意してしまうことで、子どもから考える機会を奪ってしまっているということですね。
世間体を気にして周りと合わせる事自体も、親自身が思考停止していると思うのですが、その思考停止した親の結論によってさらに子どもへ悪影響を与えているというわけです。
幼児教育の方針について
このツイートを親の立場として考えると、他にも応用というか、同様のことが思い当たることがいくつかあります。
まず最初に頭に浮かんだのは、幼児教育の方針について。
わかりやすく長女の通った私立幼稚園と残り3人が通っている国立大学附属幼稚園を比較してみます。
長女を通わした近所の私立幼稚園はかなりの詰め込み教育。
- 平仮名、カタカナの読み書き
- 数字や時計などの指導
- ピアニカの練習
- シナリオの用意された完成度の高い生活発表会
一方で長男、次女、次男を通わせている国立大学附属幼稚園は、まったく逆の方針。
- 遊び中心
- 好きな遊びを好きなだけ
- 楽器はやらない
- 自分たちで作る生活発表会
運動会や生活発表会などの行事の完成度は、はっきり言って長女が通っていた私立幼稚園のほうが断然高く、見栄えがよかったです。
なので、スキルアップという観点では、間違いなくこの私立幼稚園のほうに軍配があがります。
ですが、「自分で考える力」を持った子どもかどうか、という観点では、附属幼稚園の教育方針のほうがいい影響を与えているように感じています。
行事等の完成度は低くとも、制限のない遊びの時間の中で、次はどの遊びをしようか、と小さな決断を繰り返すことで、「自分で考える力」を養ってきたのだと思います。
忘れ物という小さな困難を乗り越える
厚切りジェイソンさんのツイートに立ち戻ってもうひとつ頭の中で繋がったこと。
それは、学校等への忘れ物です。
授業で使う教科書や道具類を忘れた場合、どのように対応されていますか?
妻を通して聞く他のお母さん方の対応は大きく2つに分類できます。
ひとつは、授業で子どもが困らないように届けに行くという対応。
もうひとつは、子どもが困ろうが完全放置の対応。
自分たちの仕事等で単にフォローする時間がないだけともいえるのですが、吉藤家では、後者。原則、放置です。
完全に後付けかもしれませんが、忘れ物で困った経験や、居心地の悪い思いが、次の忘れ物を防ごうという気持ちに繋がったり、先生や友だちに借りてなんとかその場をしのいだりと、子どもにとって小さな困難を乗り越えるいい機会になっているんじゃないかと思っています。
授業についていけるように親がフォローしたいという気持ちも親としてわからなくは無いですが、その小さなフォローを行うことによって、小さな困難を乗り越えるという子どもの貴重な機会を奪って、より大きな困難への対応力が身につかないとも考えることができます。
決断の訓練は大人でもできる
この話に関連して思い出した話もありました。
それは私自身の独立前に読んだとある本の一節。
誰の本かも、どんな流れだったかも、正確に覚えていませんが、こんな内容だったと記憶しています。
- 独立して自営業者として、経営者として生きていくためには、決断力が必要。
- その決断力を養っていくためにも、小さな決断を素早く行うこと。
- 例えば、レストランでのメニュー決め。短時間で自分で決める。
- 「じゃ、私もそれで。」と自分で決断せず、他人の決めたメニューに合わせないこと。
ということで、最初のツイートに繋がるわけですが、小さな決断事項で繰り返し、自分で決めることを繰り返して、大きな決断を行う力を養おうということですね。
どんな偉大な経営者も、小さな決断を繰り返し、徐々に大きな決断を行えるようになってきたはず。
子どもだけでなく、私自身も、小さな決断をする機会、小さな困難を乗り越える機会から避けずに、向き合い、利用することで、より大きな決断、より大きな困難への対応力をしっかり養っていきたいものです。
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